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平安堂薬局と薬学博士・清水藤太郎先生 | 平安堂薬局

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平安堂薬局と薬学博士・清水藤太郎先生

明治3年(1870年)横浜・馬車道に創業した平安堂ですが、和歌山の出身だった創業者清水榮助は、出身地名から、屋号を紀伊国屋(キノクニヤ)薬舗と称し主商品・家伝薬「上気平安湯」を製造販売いたしました。「上気平安湯」は評判がよく、製造した商品は、横浜以外の地域からも要望があり、その日のうちに完売したと伝えられています。

2代目

2代目、清水榮助(新太郎)は薬剤師免許状49号登録の薬剤師で、明治26年には、創世期の日本薬剤師会で委員となり役割を果たしたということです。
神奈川県薬剤師会3代、5代会長として薬剤師会発展の基礎つくりに寄与しました。
当時、製造販売されていました、家伝薬「上気平安湯」は処方内容の伝承はありましたものの、商品そのものは関東大震災、第二次世界大戦災を被り残っておりませんでした。
そのころ日本からアメリカ大陸への移住者は、多く横浜から渡航しましたが、その折に多くの渡航者が「上気平安湯」を持参薬として携えたそうです。
1996年、横浜地元の方から情報をいただきアメリカ、オレゴン州、ペントというリゾート地の自然博物館(ハイデザートミュージアム)に「上気平安湯」が展示されていることをしり、訪問して約90年以上の時を超えて対面することができました。
薬剤師・2代目清水榮助が自信を示すつくりとなっており、展示13個の中で持ち帰りを許された2品は現在、岐阜県各務原市の内藤くすり博物館に、清水藤太郎先生の薬学関係等蔵書約6000冊の[平安堂文庫]と共に保存されています。

3代目

3代目、清水藤太郎は、宮城県仙台市の生まれで、19歳で薬剤師国家試験に合格し、20歳になり薬剤師登録を許されました。
東北大学の前身の仙台医学専門学校薬学科、佐野義職教授の助手として採用され、独学で薬学を学び、薬剤師国家試験に合格し、免許状を手にしました。記憶・想像力そして創造力とも優れ、努力を怠らない姿勢を直視する多くの後援者によって後の清水藤太郎はその能力を益々開花させていったではないかとも考えられています。
佐野教授からの推薦で神奈川県庁に勤務、薬品取締り・飲食物取締りの巡視等、技師として検査業務等各方面に活躍の後、平安堂の前身、紀伊国屋に入りました。
最初の取り組みは、伝統の薬舗造りの店舗を近代西洋型の薬局を造りへ店舗改装を断行したことです。
家伝薬「上気平安湯」の評判がよくなるにつれ、店の名が「ヘイアントー」と呼ばれていたことから、店舗名を[平安堂薬局]と改称、現代型薬局へ変換し、その運営・経営に心血を注ぎました。
この時点で、家伝薬から製薬業への道を選ばず、薬剤師業務の薬局に家業の方向は定まったものと考えられています。
一方、日本薬剤師会においても、、また神奈川県薬剤師会会長として18年間、薬剤師の視点を軸に尽力し続けました。
清水藤太郎先生は薬学一般から調剤役、薬剤学、薬局経営学、薬局方など実践学として薬学の学術基礎つくりに尽力し、又薬学ラテン語の語学、薬剤師の一般教養に関しても言及し、幅広い知識の下、教育・啓蒙を行った数少ない薬学者です。又漢方の衰退を憂い、志の高く、固く深い大塚敬節先生、矢数道明先生、湯本求真先生など漢方臨床医と共に薬剤師の観点から多く関わり、今日の隆盛な漢方薬使用の礎を築いた一人でもあります。
自信の言葉のとおり、[私は何よりも前に一薬剤師であります]という意識と実践行動に裏打ちされた薬学者であり、薬剤師だったのです。
先生の残した著書、言動などの中に、開局薬剤師の本分領域が閉ざされいた時代にも、私たち<薬剤師>がすすむべき道を示唆した内容は多く、いかに未来の<薬剤師>を叱咤激励し、応援していたかを知ることができるのです。
多くの薬学者、薬剤師の先生方の温故知新に[平安堂文庫]が活用されれば清水藤太郎先生の本望とすることでありましょう。
明治19年(1889)[日本薬局方]の誕生と共に生を受け、共に歩み、昭和51年(1976)90歳の生涯を全うしました。
平安堂薬局として新たな未来像を描きながら、現場構想、器具機械、法規範等への姿勢と実践そして教育と薬局業務経営活動に関わる[ひと][もの][かね]の経営三原則のバランスつまり[薬剤師のあり方、医薬品・調剤に関する薬学的薬剤学的学問基盤の創造、薬局経営の経済性に関する]教授とこれらを永続させていくスピリッツを与え、私たちに残した業績は計り知れません。
東邦大学や東北薬科大学で講義を受けた多くの学生が後にその講義から受ける具体的な薬学の実践学や人柄に感銘を受けて、いつもその教えを実践していったという話をうかがうにつれ、このような人材を輩出した平安堂薬局に属する私たちは次世代に伝えていかなければならない義務を感じ精進しなければなららないことを決心させられるのです。その精神を受け継ぎ、新しいことに臆せず挑戦し、常に新たな道を模索している平安堂の精神基盤はこの2代、3代の経営者によって作られました。
平安堂薬局のみならず、薬局のあり方、薬剤師のあり方などその精神を感じながら、新たな業務展開の中で私たち一人一人の薬剤師が目覚め、創造していく時代に入っていることを確信させられる毎日です。

4代目

4代目、清水不二夫は15代神奈川薬剤師会長や日本薬剤師会理事を務める一方、震災から学び、特に敗戦後の平安堂薬局再建復興と町つくり事業に没頭しました。常に処方せんを中心とした薬剤師業務に関して薬局構造に心し、又啓蒙活動のサポートをしてきました。
父である藤太郎先生の年齢を超え、現在92歳で薬局業務の動向に関心を深くし、勤務薬剤師を励ましております。
平安堂薬局では昭和初期から、処方せん(当時は外国人医師からが多かったとのこと)を受け付けて薬の調達や薬剤調整などの調整業務も行ってきた経験だけでなく、今日のような医薬分業の歩みがわずかな時代にも月10~30枚程度の保険調剤や自調剤を受け付け続け、医薬分業への意欲を削ぐことはありませんでした。

5代目

5代目、清水良夫は昭和51年から、主事業を処方せん調剤と再認識し、本分としての薬剤師業務とその関連事業で真に活路を見いだすべく業務を再検討し、馬車道本店を含め7店舗の展開を図り、その実践に当たってきております。
開局薬剤師の業務革新のための施策や未来の薬剤師技術、又薬局や開局薬剤師の社会的役割、薬剤師の業務姿勢などにも取り組み、それは今日も続けております。
平安堂の更なる100年を目指し、新世紀の薬剤師業務に思いを深くすれば、今自らを見直さなければならず、積極的に[平安堂改革]を推し進めている今日です。
おかげさまにて、平安堂薬局は明治3年(1870)以来135年、横浜馬車馬道に営業継続をさせていただいております。
この先、確実な薬局活動、薬剤師業務の発展を自ら考え、実践し果敢にまた真摯に取り組んでいく姿勢に変わりはありません。

常日頃の皆様のご指導、ご鞭撻に感謝申し上げ、
一層のご指示、ご支援をいただきますよう心からお願い申し上げます。

2005・8・10

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